A,歯科において咀嚼という観点が必要となった背景

歯科医師になって35年経ちますが、最近になって思うのが、大学3年生以降つまり専門課程になってからの4年間の授業で習ったことが、とても大切だったんだなということを今さらながら痛感しています。

その中でも3年生の時に学んだ基礎的分野が、今となっては最も大切だったんじゃないかと思うようになりました。

大学入学直後の教養課程の2年間が終わり、3年生からは、突如として今まで聞いたこともないような専門的な講義ばかりが始まりました。

もっともたいへんだったのが解剖学でした。骨学、頭頚上肢、胴下肢、歯の解剖学と4つに分割されるくらい膨大なボリュームで、とにかく暗記することに四苦八苦していたように思います。

その他には、歯科理工学、生理学、病理学、薬理学、微生物学、歯の組織学、歯の発生学などがありましたが、当時の私はこれら基礎的な分野にはあまり興味がなく、基礎科目は試験に通りさえすればいいと思っていました。

そんなことよりも、歯を削ったり、歯を作ったりの臨床的な分野の方が、歯医者らしい感じがするので、早く5,6年生にならないかなと思っていましたし、だから3,4年生の頃はほとんど勉強もせずに、他のことばかりやっていました。

私は、大学を卒業してすぐに開業医に就職しました。大学に残る人も3割くらいはいましたが、大半は私と同じく開業医勤めでした。

学生時代に、歯を抜いたのが2本、虫歯の治療が10本、根の治療が3本くらいしか体験していませんでしたから、1年目は右も左もわからない状態で、実力は今とくらべれば、下の下、へたくその極みともいうべき状態でした。

その当時、携わらせていただいた患者さんには、たいへん申し訳ないことばかりしてしまいましたが、一生懸命さと誠実さだけを全面に押し出して、ご迷惑をかけ続けてたんだと思います。

1本の歯の治療に通常の何倍もの時間がかかってしまっていたので、1年目、2年目は治療のスピードアップを第一に考えていて、それこそが一人前になることだと信じて突き進んでいたように記憶しています。

勤務医の場合、1日に最低16人くらい診れるようにならないと、勤務している医院の経営上、戦力とはなりませんし、自分の給与の昇給も望めなくなります。

卒後の5年間は、ひたすらスピードアップのための毎日でした。その結果、5年目では1日に50人くらいの患者さんをこなせるようになっていたのですが、治療内容としては決してほめられたものではなく、流れ作業でただ数をこなすだけに終始していたように思えます。

大学5,6年生の時に学んだ治療方法から、一つまた一つ、おこなうべきステップが取り除かれ、スピードアップ重視の治療法ができあがり、それが私の身体にしみついていきました。

日本は、国民皆保険制度が確立している数少ない国です。全ての国民が、あるレベル以上の医療を少ない個人負担で受けることができる制度です。ほとんど全ての医療従事者がこの制度の上で診療をおこなっており、その結果、医療従事者の治療の方向性は、保険医療制度の報酬体系によって方針決定を余儀なくされています。

厚生労働省のお役人さんが、色々と考えた後に今後の方針を決めて、改訂を繰り返し、今の保険診療のルールになっているわけですが、否定をするつもりは全くありません。それどころか、国民皆保険制度が発足した1961年からくらべて、平均寿命が20年も増えていることからみて、制度運用はとてもうまくいっているのだと評価しています。

しかし、ここからが本題になります。

制度と医療の進歩により平均寿命が伸びた結果、歯科の分野では、歯周病の問題が拡大してきました。歯を喪失する原因において、虫歯を抜いて歯周病が第一位となりました。

こうなった要因には、様々なものが考えられますが、第一の要因は、虫歯の減少を達成できたことがあげられます。虫歯で歯を喪失することが少なくなったため、歯周病で歯を喪失する比率が高まりました。

第二の要因は、平均寿命の増加です。虫歯は若年層から始まる疾患ですが、歯周病は中年層以降から発症します。平均寿命が70歳未満だった1960年代では、歯周病による歯の欠損が重大問題化する前に天寿を全うしていたのですが、現在の超高齢社会では、歯周病による歯の欠損が大きな問題となってきました。50歳で歯を喪失し始めてから、70歳で複数本の歯を喪失し、そこからさらに20年間で加速度的に歯を喪失する人生を送ることになります。

統計データだけではなく、実際の日々の診療においても、小児や若い世代の虫歯の減少ははっきりと感じられます。

しかし、知覚過敏や顎関節症が若年層で増えつつあるのも間違いのない事実のようです。

先週の一週間でも、13歳と23歳の顎関節症の患者さん2名、18歳と23歳の知覚過敏の患者さん2名の合計4名の初診患者さんが来院されました。

13歳の患者さんは顎関節症だけの状況でしたが、その他の3名はレントゲン検査の結果、大臼歯に咬合性外傷による歯根膜腔の拡大が認められました。

知覚過敏、顎関節症から歯周病への移行が予想される若い患者さんが年々増加しているのは確かです。

問診の結果、4名ともに大臼歯のみでの咀嚼をしていました。舌は後退した位置にあり、下顎も後退していました。頚椎の回旋も異常があり、正に悪い咀嚼をしている典型的な患者さん達でした。

戦後、ちゃぶ台に正座での食事からテーブルにイスでの食事に変化し、学校給食でパン食が普及したことをきっかけに、現在ではパン食が米食を上回っています。

テレビの普及、パソコンの普及、そしてスマホの普及が、人々の姿勢を変化させ、その結果、咀嚼の様態が大きく様変わりしました。

日本人としての骨格や筋肉にふさわしい「正しい咀嚼」をおこなうことができない人が増えてきたため、歯周病に罹患する人が増えてきたのも事実です。

私が、咀嚼と歯周病の関係について考えることができるようになったきっかけは、次に挙げる2種類の人が存在することに気がついたからです。

一つは、どうしても治らない歯周病の患者さんの存在。もう一つは、歯磨きを一生懸命しているわけではないのに、歯周病にならない人の存在。

これら2種類の人はどこが違うんだろうかと考えるようになったことがきっかけでした。

この時にたいへん役に立ったのが、大学時代には軽んじていた基礎的分野の学問でした。

なぜこのような現象がおこるのだろうかという疑問の解決には、基礎的分野の学問の知識なくしては、決してたどり着けません。

それからの私はがむしゃらになって、その原因究明に突き進みました。現在のネット社会はたいへん便利です。欲しい情報を手に入れることがとても簡単になりました。

解剖学に始まり、歯科理工学、生理学、病理学、薬理学、微生物学、歯の組織学、歯の発生学を、再度学び直しました。

そしてその結果、咀嚼と歯周病の関係を発見することができました。

高齢社会と歯周病の増加の悪のスパイラルによって、今後ますます歯の欠損の問題は拡大していくでしょう。

若年層の知覚過敏や顎関節症の早期発見と、その後の咀嚼法指導が周知徹底されないと、約40%の方が多数歯の欠損によりQOLの低い人生を送ることになってしまいます。

この流れはもう始まっています。一日も早い対策が求められているのです。